WBCで侍ジャパンの一員として活躍し、大きな話題を呼んでいるラーズ・ヌートバー選手。
しかしながら、彼がプロ野球選手として名を馳せる前は、彼の名前を知る人はほとんどいませんでした。
そこで今回の記事では、ヌートバー選手の野球人生にスポットを当て、以下の2つのポイントを取り上げます。
- ヌートバーは二刀流だった
- ヌートバーが野球を選んだ理由3選
これらのポイントを通じて、ヌートバー選手がどのようにしてプロ野球選手としての道を選んだのかを見ていきます。
ヌートバーは二刀流だった
ヌートバー選手には、野球だけでなくアメリカンフットボールにも秀でた才能があったことをご存知でしょうか?
彼の二刀流は大谷翔平選手のような「投手・打者」ではなく、「野球・アメリカンフットボール」という異なる競技でのものでした。
ヌートバー選手は高校時代、野球選手としては、オールリーグMVP賞を3度も獲得し、2年生で打率.485、3年生で.435、4年生で.438という高い成績を残しました。
アメリカの高校は4年制が主流のようで、日本で高校4年生と聞くと少し違和感を覚えてしまいますね。
アメリカは州や学区によって学制はさまざまですが、日本の小・中・高の6・3・3制にあたる区分けとしてアメリカで最も多いのは6・2・4制です。 学年のことをGradeといい、小学校1年生から高校3年生までを通して1st Grade、2nd Grade、……12th Gradeといいます。
引用「ryugaku.com」
ヌートバー選手は、オールCIF(南カリフォルニアセクション)や全州の選抜チームにも3回選ばれるなど、その才能を開花。高校2年生時にはすでに野球推薦で名門の南カリフォルニア大学(USC)に進学することが内定していました。
一方アメフト選手としては、高校3年生・4年生の時にアメフトのQB(クォーターバック)としてチームの司令塔的役割を担い、チームを率いて大活躍。
レギュラーシーズンでの無敗記録を打ち立て、CIF(南カリフォルニアセクション)ノース・ウエスト地区でチーム創設初の準優勝に導きました。彼の活躍はリーグMVPを2年連続で獲得するなど、多くの称賛を浴びていました。
ヌートバーが野球を選んだ理由3選
「ベースボーラー」だけでなく「フットボーラー」としても名を馳せることとなったヌートバー選手。
アメフトでの大活躍で、すでに野球で推薦をもらっていたUSCからアメフトの推薦も届くという驚きの結果に。USCアメフト部は多くのNFL選手を輩出した全米屈指の名門。
野球とアメフトの両コーチが彼を巡って熾烈な争いを繰り広げられたそうです。
「本人はすごく悩んだと思います。普通、野球の推薦にコミットしたら、他の競技には手を出さない、みたいな暗黙の了解がある。でも、ラーズは高校3、4年ですごくフットボールで活躍しちゃって……」
引用「Number WEB」
幼い頃から始めていた野球・小学校6年生からのめり込んだアメフト。どちらも実績を作り、そしてどちらも大切な存在。
じゃあヌートバー選手が野球を選択した理由はなんだったのでしょうか?
ここには3つの理由があると思われます。
選手生命の長さ
スポーツ選手なら誰もが気にするケガやそれによる選手生命。
野球であればMLBでも日本プロ野球でも現役選手の平均は20代後半ぐらいとなっています。
イチロー選手や上原浩治選手のように40代でMLBで活躍されていた選手もいるので個人差はありますが、平均としては30歳ぐらいが目処。高校卒業からであれば10年前後というところでしょうか。
一方で、アメフト選手の選手生命は、ヌートバー選手のポジション・QBの場合、平均で4年ほど。
アメリカで他のスポーツを圧倒する人気を誇るアメフトの最高峰「NFL」。
「ライバルによる競合性の高さ」や「激しいヒットやタックルによる身体的ダメージ」が選手寿命の短さの要因とされています。
ヌートバー選手もアメフトで複数のケガを経験。
長期的に見て、長く選手を続けることができ、大きなケガの確率がアメフトよりも低いと考えられる野球を選択してもおかしくないですね。
父親のチャーリーさんも当時の選択に関してこのように語られていました。
「やっぱり、アメフトは怪我が……。高校でもラーズは肘や膝をやっていましたから。大学に行ったらもっと大変です。みんなもっと大きいし、ヒット(当たり)も強い。確かにQBとしての技術は高かった。今の各大学のQBを見ても、彼は絶対に通用したと思う。大学のコーチもそう言っていました。怪我がなければNFLにも行っていたと思うけど、将来を考えると、野球の方が長く続けられると思ったんじゃないかな」
引用「NumberWeb」
野球一家の影響
高校まで野球をしていた父親、高校時代にソフトボールで強豪の埼玉・松山女子高で活躍した母親、そして幼少期から野球をしてマイナーリーグでもプレーしていた兄。
野球が家族に根付いていた影響から、ヌートバー選手は5歳の頃から野球を始めました。
毎日学校が終わると、父親や兄と一緒に裏庭で練習していたそうです。
ここに母・久美子さんも加わり、一家でバッティングの練習を楽しんでいました。
初めての指導者は久美子さんだったといい、久美子さんが「こう打つんだよ」と手取り足取りフォームを教えたそうです。
幼い頃から一家で育んできた野球。
アメフトとの選択では、野球とどちらを選ぶか相当迷ったそうですが、最終的に野球を選んだ理由を「野球一家で育った」「野球が一番」と語っていました。
最終的に野球を選んだのは、私が野球一家で育ったからだと思う。自分の人生は野球に捧げられているのかな、って。野球の方がアメフトより長くやっていたし、何かがいつも自分に語りかけていたんだよ。『あなたは野球が合っている』と。
引用「NumberWeb」
フットボールが恋しいし、大好き。でも、野球が一番なんだ。母も野球の方が好きだし、そういうことにも関係しているのかもね。たしかに高校時代にフットボールで大きな怪我をした。でも、それは『野球に行った方がいいんじゃないか』って最後の決定打みたいなもの。野球ならタックルされることもないからね(笑)
幼い頃の憧れ
2006年、ヌートバー選手が8歳の少年だった頃、日米親善高校野球の日本代表選手たちをホストファミリーとして迎えました。
ホストファミリーとなったのは早稲田実業高校の船橋悠選手と帝京高校の塩沢佑太選手の2人。
一家総出で、ロサンゼルス空港で手作りのボードを持って2人を迎えたそうです。
最初は人見知りしていたヌートバー選手でしたが、すぐに選手たちと仲良くなり、一緒に海に行ったり、夜の自主練習では一緒にバットを振っていたとか。
塩沢選手は当時のヌートバー選手について、「映画『ホームアローン』に出演したマコーレー・カルキンのような、明るく元気ないたずらっ子。キャッチボールやアップにも一緒に入ってきて、皆に愛されていた」と語っています。
高校日本代表の試合にはバットボーイとして駆けつけ、斎藤佑樹選手や田中将大選手らとも親交を深めていたヌートバー選手。
彼は帽子のつばに選手全員のサインを書いてもらうなど、選手たちとの思い出を大切にしていました。
そして、選手らが帰国する際には、彼は空港で泣きじゃくり、船橋選手へ渡した手紙には「寂しい。また絶対会おうね」と書かれていたそうです。
「とてもカッコイイと思ったし、子どもの私にとって彼らはヒーローでした。彼らのようにプレーできるようになりたいと思ったんです」
ヌートバー選手がが出会った選手たちは、彼が一生忘れることのできない友人でもあり、憧れ。ヌートバー選手が野球を選択するモチベーションとなったとともに、野球愛を燃やし続けるきっかけとなった存在でもあります。
まとめ
今回の記事では、ヌートバー選手の過去の二刀流についてや野球を選んだ理由について見てきました。
さまざまな思いはあったと思いますが、ヌートバー選手が10歳の頃にアメリカのリージョナルオールスターチームでプレーしていた頃の動画で言った言葉の
‘I’m representing my country for Japan’.
僕は日本を代表してここにいます。
まさに有言実行ですね。
これからもヌートバー選手の活躍から目が離せませんね。